モンゴルの後宮で魔女は怒りを胸に秘め、静かに微笑む『天幕のジャードゥーガル』

最強の大帝国モンゴル

 13世紀の北方のユーラシア大陸を支配した地上最強の騎馬民族であり、大帝国、モンゴル。当時彼らが蹂躙した領土は現在のハンガリーにまで及び、もし「陸続き」であれば日本の歴史も変わっていたのではないかといわれています。

 隆盛の激しい戦乱の歴史の中で、多くの命が翻弄されました。奴隷としてイラン東部トゥースにて学者の家に仕えていた主人公、少女シタラ(星という意味)もその一人。

「お前のようにか弱いものが持っていいのはひとつだけ…恐怖だよ」
 勢いよく燃える炎の前に、小さな星(シタラ)の灯りは儚いものです。
 ……あ~あ、ヤダな。またこうして女性が虐げられる話だよ。歴史を知るのが大切なのはわかるけど、女性がヒドい目に遭うストーリーを読むと悲しい気持ちになるのよね……。
 と、私は思っておりました。

 逆です。
 「奴隷なら、女なら、弱者ならなおさら従え」という帝国の強い口調にも、美しく微笑むこのシタラーー、ただモノではありません。
 モンゴル帝国の捕虜として捕らえられた後、ファーティマと名を変え後宮へと潜み、やがては彼女自身が、大陸の支配者たる大国モンゴル「」翻弄していく存在となります。
 しかもその武器とするのは女性としての美しさではなく、知恵。そう、後宮では賢さこそが美しさを凌ぐ力となるのです。

ハードルを感じる方にこそ勧めたい!

 「このマンガがすごい!2023」オンナ編にて堂々の1位をさらった超話題作! 気になる、読んでみたい。けれど、歴史モノってなんだか難しそう……? 大丈夫。むしろそんなハードルを感じる方こそ、激動のモンゴル史へと引き込まれていくかもしれません。
 さぁ、愛らしい魔女ジャードゥーガルに誘われて、モンゴルと一緒に一泡吹かせられにいきましょう!

 物語は当時世界最高レベルの医療技術や科学知識を誇るイラン、その東部の街トゥースの奴隷市場より始まります。
 市場の商品として売られていた少女、シタラは「笑った顔が可愛い」という理由で、教養を身につければさらに奴隷としての価値が上がるはずと、街でも高名な学者の家系であるファーティマ奥様の家に預けられることとなります。
 見目の美しさ、可愛らしさには価値がある。そのために仕える先が決まったシタラですが――、勉強には身が入らない毎日。
 しかし、一家の長男であり、秀才と名高いムハンマドとの出会いによって「知恵」を持つことは、未来に対して適切に対応する力が身につくものだと教えられます。
高いところから盆を落としたムハンマド坊ちゃん、多くの者が「なんの音だ!?」と右往左往する中、盆が落ちると“知っていた”シタラは耳を塞いでその騒音に適切に対応しました。
 奴隷の身でありながら知恵を、力を得る機会を得たことの幸運をシタラは理解し、それまで消極的だった教養に興味を持ち、学を身に付けていくのです。
 そして、年月は流れ、美しく賢く成長した彼女は、奴隷である自身の主人である奥様から、思わぬ申し出を受けるのです。

「彼の側に仕えてほしいの 一人の人間として」
 当時のイスラム文化では奴隷は奴隷という言葉が持つ印象よりも優遇されており、主人から商売の暖簾分けをされたり、奴隷身分の母から王やカリフ(イスラム世界の最高指導者)が生まれることもあったようです。
 シタラは仕える奥様ファーティマに大変可愛がられ、いつかは自分の愛息であるムハンマドの妻になってほしいと願われます。
 奴隷として天涯孤独に生きてきた自分が、一人の人間として幸福な未来もあるのだと……。
 そんな彼女の穏やかで希望に満ちた日々は突然潰えてしまうのです。
遊牧民の襲来に備え、奥様と共に床下に潜んでいたシタラ。しかし、見つかってしまい、奥様はシタラをかばい斬りつけられてしまいます。奴隷である彼女を「私の娘」と呼びながら……。

✔捕虜は勇敢に微笑む

13世紀に猛威を振るった広大な帝国モンゴル
 シタラが暮らしていたトゥースを襲った相手こそが、当時最強の大帝国として領土を拡大していたモンゴルだったのです。
 街は壊滅し、自分を「私の娘」として迎えてくれたやさしい奥様を殺され、女・子供・職人と共に捕虜としてモンゴルに囚われたシタラ。
 それまでの日々が一変し彼女が戸惑うように、屋敷に仕えていた同僚も次々と命を絶っていくことに……。
 たった一人になり、「誰か助けて……」と絶望したシタラですが、かつてムハンマドが教えてくれた「勉強をして賢くなれば、どんなに困ったことが起きても何をすれば一番いいかわかる」という言葉を思い出します。
 幾何学の基礎が記され、今や奥様の形見となってしまった「エウクレイデスの原論」は敵、モンゴルの第4皇子トルイの妻への戦利品として奪われてしまいました。
 まずはその本を取り返すことを決めたシタラは怒りを笑顔の下に隠し、自分が学者の娘であり、教養があることを訴え帝国の王族へ出仕していくことを決意します。シタラの名を、敬愛した奥様ファーティマの名に変えて――。
簡略される残虐性、印象的な笑顔

 同作を手掛けるのはトマトスープ先生。
 肉厚ではっきりとした線によるドローイングに、様々な模様を衣装や背景に効果的に使い、エキゾチックな世界観を美しく描き出しています。
 特に歴史物が苦手な私にありがたかったのは、戦争と切り離せないグロテスクな描写が簡略化されていること。同じ事象を描く場合でも、どこにフォーカスを当て、どの程度に演出を「盛る」かは作者さんのさじ加減。
 苛烈さも描かれる『天幕のジャードゥーガル』ですが、トマトスープ先生の作画はやわらかで、絵本のような丸みがあり、戦火の生々しさに引き摺られずにストーリーを追うことができます。
 そんな個性的な画力が魅力の『天幕のジャードゥーガル』ですが、コミカルな作画でありながら表情には独特のリアリティがあり、特に女性達が見せる様々な笑顔には注目です。
捕虜となり、ムハンマドの言葉を思い出したシタラ。何かを決意して敵国に笑顔を見せる印象的な場面です。

✔後宮の女王は静かに怒る

美しい笑顔の下で
 本作を手掛けるトマトスープ先生は、コミックスのカバー裏で「女性たちから見たモンゴル帝国を描くことが本作の試みです」と書かれています。
 好意、歓迎、寛容、追従……、笑顔は人ならではのコミュニケーションですが、時代の女性達にとっては戦火の下、生き残る術でもあるように感じます。愛らしい笑顔が価値となったシタラ、ファーティマもここぞという場面で見せる笑みには様々な想いが潜みます。
 しかし『天幕のジャードゥーガル』の女性達は翻弄されるばかりの存在ではないのです。
「笑って生きなさい」。ドレゲネの夫ダイルは、そう言い残し戦場へと向かって行きます。
捕虜となった女性たちの強かさ

 当時、燃えさかる火の勢いで大陸を蹂躙したモンゴル。侵略する領土が広いということはそれだけ多くの民族や、その市井に付随する文化や宗教が一つの帝国の元に集約されたことでしょう。その一方で、モンゴルは宗教や思想に寛容で、それを抑制・統一するようなことはしなかったといわれます。

「生きていれば案外上手く転がっていくものね」
 本作ではシタラと同じ境遇として異なる人種の捕虜たちが、新たな暮らし、生活に慣れ、笑顔を取り戻していくたくましい様子が描かれます。
 一方でファーティマと名を変えたシタラは時間と共に自身の怒りが風化し、モンゴルを許しそうになってしまう自分を否定します。絶対に彼らが私にしたことを忘れてならないと。

 そして、ファーティマと同じく痛みに慣らすことなく耐えている女性が一人。
 彼女こそが本作のもう一人のヒロインともいえる女性、オゴタイ・カアンの第六妃ドレゲネ皇后カトゥンです。

✔知恵が大陸を揺るがす武器となる

この怒りが潰えることを恐れ、痛みに慣らさず嵐を待っていた
 多くの女性の笑顔が描かれる中で、唯一常に怒りの表情を浮かべるドレゲネ皇后は、ファーティマと同じく実際のモンゴル史に名を残す女性の一人。
 後宮に仕え、ドレゲネ皇后と接する内にファーティマは、彼女の内にある自分と同じ苦しみと、その怒りに気づきます。
 元ナイマン族の姫であったドレゲネは、敗戦による捕虜であり、戦火によって愛する夫や家族、日常を失った後に――、敵国モンゴルの皇子の妻として迎えられた人なのです。わかるよ、美人だもんな!
 ファーティマの笑顔の下に自身と同じ怒りを感じたドレゲネ皇后は、その胸の内を明かします。
 長い年月で、自分の中で燻る火が潰えそうになるのを恐れながら、それでもずっと――嵐が起こるのを待っていたと。
 でも、たった一人ではなにもできないと嘆く彼女にファーティマは言います。「私に知恵がございます」
始祖チンギス・カンの崩御

 物語は大カアン・始祖チンギス・カンの崩御によって大きく動き出します。
 モンゴルの未来を引き継ぐのは新たな王として即位したドレゲネの夫オゴタイの他、3人の皇子達。広大な領土、様々な宗教、異なる文化を束ねる上で、バランスを失えばこの国の内はあまりに脆いとファーティマはその知恵を持って見抜くのです。
 ドレゲネ皇后と力を合わせ、静かに立ち上がるファーティマ。天幕の松明に霞む小さな星が遥か彼方で想像を絶する高温で燃えているかのように。
 広大な最強帝国を翻弄する彼女の物語は、まだ始まったばかりです。

▼ 作品情報 ▼

天幕のジャードゥーガル

著:トマトスープ


(C)トマトスープ(秋田書店)